徒然草紙~神社とか小説とか~

神社仏閣巡り・小説・歴史考察・石談義など、ごった煮ブログです。ちょっとトンデル時もあります(笑)。

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伊勢神宮の謎






伊勢神宮は倭姫が伊勢の地に天照大神を祭ったのがはじまりと言われています。


が、本格的な祭司を始めたのは、飛鳥時代の天武天皇のようです。


甥と皇位を争った天武天皇は壬申の乱を引き起こしますが、このとき彼は天照大神に祈りを捧げ、勝利します。後に、天武天皇は娘の大来皇女を斎宮とし、遷宮を行ないます。「日本書紀」に倭姫以下数人の斎宮が出てきますが、実際のところは、大来皇女が最初の斎宮だったようです。


では、初期の大和朝廷でさかんに祭られていた神は誰だったかというと、三輪山の大物主神です。


崇神天皇の時代、疫病が流行って人々が死んでいきました。また、各地に反乱が起こりました。


困った天皇は宮中に祭られている天照大神と倭大国魂神に祈りますが、二神の威厳に畏れをなし、娘の豊鍬入姫に天照大神、渟名城入姫に倭大国魂神を託して祭らせます。が渟名城入姫には神の威勢が強すぎ、髪が抜け落ち体が痩せ細ってしまって神を祭ることができませんでした。


娘たちに神祭りをさせても、災害は治まりません。


その時、倭トト日百襲姫にある神が依りつきます。神は、この疫病は我のここれによるものである。我を祭れば自然に平らぐだろう、と宣ります。天皇がどちらの神かと尋ねると、


「我は大物主神である。我が子の大田田根子に我を祭らせよ。さすれば災害はなくなるであろう」と託宣します。


言われたとおり、大田田根子を捜し出して大物主神を祭らせ、市磯長尾市に倭大国魂神を祭らせて、物部氏の先祖の伊香色雄を神の捧げ物の担当者にしました。


これによって、災害は治まりました。


この後、祭司は物部氏が中心になって行い(正確には、始祖である饒速日命のころから巫的要素を備えていて、十種神宝やひふみの祓詞は有名)、大田田根子の子孫は三輪朝臣として栄えます。


古代、最も勢力を持っていた豪族は物部氏です。


神武天皇が大和に入ったときに、先に大和に入っていた天孫がいました。それが、ニギハヤヒです。彼は大和の土着の豪族・ナガスネヒコの妹・ミガシキヤヒメと結婚してウマシマチを生みました。


ですから、ナガスネヒコは神武天皇が天孫だと言って姿を現したとき、「天孫が二人もいるものか!」と言って、神武天皇を退けようとします。


が、それを知ったニギハヤヒはナガスネヒコを殺し、大和を明け渡します。


こうして神武天皇は即位し、ウマシマチを厚く用います。


また、神武天皇は大物主神の娘・イスケヨリヒメを皇后にします。


以降、ウマシマチの子孫である物部氏は平城京遷都まで栄えます。


古代、大王と呼ばれていた天皇は、物部氏などの豪族と肩を並べるように大和を統治していました。


物部氏は神祭と軍事行動を司り、三種の神器と並ぶ神宝である布都御魂剣(神武天皇が大王の象徴として持参した剣)・布都斯御魂剣(スサノオ神がヤマタノオロチを倒したときに使った剣)・十種神宝(布留御魂神)とともに収集した貴重な武器を物部氏の庫に収めました(これが、石上神宮です)。


この情勢に変化を起こしたのが、雄略天皇です。















雄略天皇は中国の史書に出てくる「倭王・武」です。彼はとてもスケールが大きい人物ですが、中々問題な人物だったりします。


彼は自分が皇位に即くために、皇位継承権のある皇子を殺していきました。そして、殺された皇子たちをバックアップしていた豪族(葛城氏とか、三輪氏)を殺していきます。そのなかには、妃の父もいました。また、吉備氏の妻が美人だというので、吉備氏を殺してもいます。


これによって、豪族達は戦戦兢兢としたと思われます。


また、雄略天皇は神々に対しても非礼な行いをしています。


天皇にそっくりな葛城の一言主神に遭遇したときに、「おまえは誰だ!」と喧嘩を売ります。言ったことを鸚鵡返しする神に、「おまえが先に名を名乗れ! さすれば我も名を名乗り、おまえに矢を射掛けよう!」と告げます。そのあと「我は良きことも悪きことも一言しか宣らぬ葛城の一言主神である」と正体を明かされ、天皇はビビリあがってしまいますが。


また、少子部スガルに「三輪山の神の正体を見たい」と言います。言われたとおりスガルが引き出してきた神が、目をらんらんとさせ、雷のような音を発てる大蛇だったため、またも天皇はビビリあがって引きこもりになります(暴君でありながら、気の小さい彼って……笑)。


一説には、応神天皇のときに政権交替(大陸から渡来? または他の地域から移住?)がなされ、祭司や豪族の扱いが変わったともいわれています。


そして、伊勢神宮の外宮が祭られたのは、雄略天皇の時代らしいです。


この後、仏教伝来などがありますが、天武天皇の時代に、天皇の権力の強化、宗教の改革が行なわれます。伊勢神宮の整った編成も、その一貫と思われます。


欽明天皇の時代に仏教が大陸から渡来し、神道を重んじる物部氏や中臣氏と、崇物派の蘇我氏が戦います(四天王寺の戦い)。このとき、聖徳太子も蘇我氏側に参戦したりします。物部氏は敗れ、日本の神祀りに翳りが見えてきます。


また、「記紀」の記述で見れば、聖徳太子は仏教の聖人として扱われています。「記紀」は天武~持統天皇のころに形が出来上がっているので、聖徳太子の時代とはそうかけ離れていませんが、太子は半ば伝説の人物というような不可思議な書き方をされているので、実像がよく解りません。のちに出てくる蘇我入鹿を、天皇家に仇をなそうとした極悪人というように書くため、「記紀」編纂に加わった人間(或いは黒幕)が、太子の子・山背大兄王子や太子を聖人として仕立て上げようとしたのかもしれません。


崇仏派蘇我氏の台頭の影に隠れて、密かに神祇伯に任じられようとしていた人物がいました。中臣(藤原)鎌足です。彼はこのとき辞退しますが、彼の一族は神道に深く関わっていくようになります。


中臣鎌足は皇極天皇の子・中大兄王子に接近し、天皇の寵臣である蘇我入鹿暗殺計画を多武峰で練ります。


645年、飛鳥板葺宮において、皇極天皇の目の前で蘇我入鹿は殺されます(大化の改新)。


世間一般で悪人といわれる蘇我氏(蘇我入鹿)ですが、彼らと天皇家の争いは、半島情勢と関係があったといわれています。蘇我氏は親新羅、天皇家(とくに中大兄王子一派)は親百済だったといいます。なので、蘇我入鹿殺しを後世に悪く言われないように、「記紀」は蘇我氏を「悪人」に仕立て上げたのかもしれません。


中臣鎌足は即位した天智天皇(中大兄王子)から内臣として重んじられ、藤原の姓を賜わります。また、別流の中臣大島や意美麻呂は神祇伯として神道の中枢に深く潜り込んでいきます。


中臣氏は天智天皇の側近だったので、天皇の死後即位した大友皇子に仕えました。が、吉野に逃れた大海人皇子が挙兵し、戦いとなります(壬申の乱)。大友皇子は敗れ自害し、中臣氏も流刑や処刑されます。


敗者となった中臣氏ですが、鎌足の娘達を天武天皇に嫁がせたりして、こつこつと地盤を固めていきます。


鎌足の息子である不比等は天武天皇から遠ざけられ、持統天皇の頃に判事(下級裁判官)になるまで隠忍自重の日々を送っていました。


が、不比等は後々、持統天皇に重く用いられるようになります。















持統天皇(鵜野讃良皇女)は天智天皇の娘で、同母姉の大田皇女とともに大海人皇子に嫁ぎます。


彼女の母は蘇我倉山田石川麻呂の娘です。が、蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子から謀反を疑われ、自害します。持統の母は狂乱したといいます。


姉と夫を共有する生活を送っていましたが、持統は男児を生みます。草壁皇子です。


ですが、大田皇女はその一年後に大津皇子を生み、しばらくして亡くなります。


大海人皇子には皇族出身の妃がそのときおらず(有名な妻に額田王がいましたが、彼女は皇族ではありません。名前に王とありますので、おそらく、少しは皇族の血を引いているのでしょうけれど)、姉の死により持統は大海人皇子の正妃となります。


夫と弟・大友皇子が争い、壬申の乱が起こっても、持統は大海人皇子に付き従います。


大海人皇子が勝利し、天武天皇になったとき、彼女は皇后になります。


思うに、持統天皇は女性ながらに、物凄い政治的感覚・手腕・才能があったのだと思います。夫の補佐をし、皇后として天皇の次に重要な人として遇せられてきたのでしょう。「深沈として大度あり」と「日本書紀」に讃えられています。


が、彼女にも悩みがありました。


姉・大田皇女の息子・大津皇子がきらびやかな存在感を有し、対して彼女の子の草壁皇子は穏和で政治家的資質が劣っていたことでした。


持統は草壁皇子を皇太子にするよう天武天皇に持ちかけ、草壁は皇太子になります。


ですが、天武は大津の才能を愛していました。大らかで皇子としての風格を身に付けていた大津を頼もしく思ったようです。683年、大津を朝政に参加させます。


大津は、草壁と女を争い、勝利してもいます。歌の才があり、美丈夫な大津は、人気がありました。


持統の不安は弥が上にも高まっていきます。


天武天皇は、積極的に政治改革を行っていきます。律令の制定や軍事力の強化、新羅との交流(遣新羅使)、衣服の色による廷臣の区別化(八色の姓)を定めます。


この改革のなかに、伊勢神宮の統制があります。娘の大来皇女(大田皇女の娘。大津皇子の姉)を斎宮にします(彼女が最初の実在の斎宮か?)。また、額田王との間に生まれた長女・十市皇女(大友皇子の正妃)も675年に伊勢の神に仕えさせようとしますが、彼女は倉梯(奈良県桜井市)の斎宮で謎の死を遂げてしまいます。この「謎」なところが、怪しいかもしれません。十市皇女に関してはいろいろ言われていて、大友皇子に嫁いだが、そのとき既に異母兄妹の高市皇子と恋仲であって、結ばれない悲観から自害したとか、父と夫の板挟みになって病んでしまったとか、様々な説があります。或いは、天武天皇の宗教改革により蔑ろにされた神々(あるいは氏族)の怨嗟などが影響した、ということもあるかも? と思っています。


即位して13年後(686年)、天武は病に陥ります。


持統はあらゆる手を施し、神仏に頼みます。このとき、占いに「草薙の剣の祟りが、天皇の身に及んでいる」と出、草薙の剣を熱田社(熱田神宮)に移します。


が、どのような祈りも叶わず、686年に天武天皇は崩御します。


夫の遺志を継ぎ、持統は政務をとります。


このとき、すぐさま持統がしたことは、大津皇子の処刑でした。


大津が新羅の僧と図って謀反を起こそうとした、として、彼を捕らえ絞首刑に処しました。


が、運命の皮肉か、689年、草壁皇子が病死してしまいます。


失意のなか、持統は草壁の子・軽王に望みを託し、皇位につきます。


日本で三人目の女帝・持統天皇です。


彼女は、祖父を殺された悲しみから、自分の血に執着する人だったのかもしれません。天武は天智天皇の娘を数人娶っていて、皇子も生まれています。持統は、夫の子であり、皇位継承権のある皇子達を牽制するため、自ら天皇になったようです。


持統の「血の執着」は強いものでした。


そこに付け入ったのが、藤原不比等でした。















藤原鎌足の息子・不比等は父を上回る稀代の策略家でした。


彼は蘇我氏(蘇我入鹿が滅びても、この頃も蘇我氏は残っています)の娘と結婚し、長男・武智麻呂(南家。のちに天平時代に勢力を延ばす藤原仲麻呂を輩出)、次男・房前(北家。平安時代に「この世をば……」の歌を詠んだ藤原道長の先祖)を生し、持統天皇の時代に判事(裁判官)となります。


不比等がどうやって持統の近くに寄っていったのか、定かではありません。持統は天智天皇の娘なので、あるいは父が鎌足を重用したように不比等を用いようとしたのかもしれません。事実、不比等は天武天皇の妃となった異母妹に手を出し、子を生してしまいますが、咎められた様子はありません。飛鳥~天平の時代は、臣下の者が天皇の女(采女や女嬬など)を犯すと、重くて処刑、または流刑に処されたりします。それも、恩赦があっても都に帰れなかったりします。


不比等という人は、よくよく女性関係に強かったとみえます。持統に気に入られたのも、彼が男性的魅力に溢れていたからだ、という人もいます。謡曲などにも、彼と女性の話が残っています。


自分のことをよく解っていた不比等は、最大限に利用します。


持統が鍾愛している孫・軽王の乳母である県犬養三千代に接近し、彼女とねんごろになります。


やがて、持統が退位し、軽王が文武天皇として即位すると、不比等は娘の宮子を文武天皇に嫁がせます。宮子は男児を生み(聖武天皇)、同じ頃に三千代も女児を出産します(光明皇后)。物凄い離れ業ですが、このことが不比等の運命を決定づけました。


三千代は宮子の子・首皇子の乳母となり、自分の子の安宿媛と一緒に育てます。


持統太上天皇の信頼を得ていた不比等はこの頃、判事としての知識を活用して「大宝律令」を制定します。


また、彼は持統の死後に編まれた「古事記」「日本書紀」の作成に深く関わった「黒幕」といわれています。


持統の時代に飛鳥から藤原京に遷都しますが、これは古来からの豪族(蘇我氏など)の本拠地から宮処を引き離すのが目的だったようです。さらに、文武天皇が夭逝して位に即いた母・元明天皇の頃に平城京に都を遷します。


不比等の死後、彼の手の内で育てられた首皇子が即位し、聖武天皇になり、娘の光明子(安宿媛)が皇后になります。


聖武天皇はのちに東大寺を建立しますが、その東側に春日大社があります。


春日大社は聖武天皇と光明皇后の間の子である称徳天皇の勅命により藤原氏が建てた神社で、藤原氏の総氏神になります。鹿島から武甕槌神、香取から経津主神、摂津(中臣氏の本貫地? 大阪の三島は所縁が深い)の枚岡から天児屋根神と姫大神を勧請して祀ります。(和銅二年に不比等が武甕槌神を勧請したとも)


が、この春日大社の地はもともと和邇氏(この支族に粟田氏・小野氏・柿本氏・春日氏があります)の土地で、榎本大神(猿田彦神)が地主神として祀られていたといいます。


武甕槌神も少し謎があり、大神神社の祭神である大物主神の子孫に武甕槌の名があります(大物主―櫛御方―飯肩須見―建甕槌―意富多々泥古・オオタタネコ)。武甕槌神は熊野の高倉下(父・天火明神=饒速日=物部氏の祖神ウマシマチの弟?)に神剣・布都御魂剣を授けています。布都御魂剣は経津主と同じという説もあります。


このことから、鹿島・香取の神は物部氏の神であったとも考えられます。


中臣(藤原)氏は系譜の解らない氏族で「記紀」に天児屋根神の子孫と書かれていますが、「古事記」と「日本書紀」では意見が別れていて、はっきりしません。百済の渡来人ともいわれています。


新興貴族(?)藤原氏は、「記紀」が作成されるときに自分達の系譜を組み込むために細工をしたかもしれません。古代豪族・蘇我氏や物部氏と同列の権威を主張するために、「神話」を造り上げたといわれています。


また、天武・持統天皇は古来の豪族から天皇家の独裁制を確立するために「記紀」を欲したのかもしれません。雄略天皇のころまでは、大王の治世に物部氏などの豪族が深く関わっていました。物部氏のもつ「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」の伝承が本当なら、天皇家の立場は大きく崩れてきます(ただし、物部氏の史書「先代旧事本紀」が「記紀」をもとに書かれているなら、この説は成立しなくなりますが……)。持統天皇は自分の血を重視し、彼女の子孫を天皇として永続させようとしていたのなら、余計です。天皇家と藤原氏は結託して「天照大御神(天照大神)」という女神を造型した、といわれています。


「記紀」が成立する前に、「天皇記」「国記」が存在したといいます。が、蘇我氏本宗家(蘇我入鹿の家)が滅亡するときに焼失したといいます。とすれば、大化の改新自体、前勢力打倒のために引き起こされたクーデターであって、過去の日本の記録であった書物はどさくさに紛れて抹殺されたのかもしれません。


日本の黎明期の伝承は、為政者の恣意によって、大きく書き換えられたものなのかもしれません。




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