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2008.07/29 [Tue]
愛別離苦~平資盛と建礼門院右京大夫~
寿永三年(1184年)夏。
一の谷で源氏との戦いに敗れた我等平氏は、讃岐国屋島に逃れてきた。
兄・維盛と弟・清経が入水して果て、帝を頂き西国に都落ちしている平家に同行している小松一門は、わたしと有盛だけである。
屋島に帝の仮御所を築き、我等平氏は一時の休息を得た。
「資盛さま、いつものお方から御文です」
わたしの乳兄弟である麻鳥が、見るともなく百日紅を見ているわたしにうやうやしく料紙を差し出す。
――右京……。
右京。わたしの愛しい女人(ひと)。
彼女は建礼門院さまにお仕えしていた元女房で、門院さまが帝を生み参らせ給う頃に彼女の母上が病に臥したゆえ、看病のため御所を離れた。
わたしが妻を迎え、右京も愛人が出来たため、一時は間遠になったが、今でも最も馴れた女人、後世を託せる女人は右京だけといえる。
わたしが都から落ち延びてからも、何かの伝手がある限り、右京は文を届けてくれた。それもまた慕わしく、目から涙が落ちる。
今回も誰かの計らいで、右京は遠く離れて久しいわたしに文を書いてくれた。
麻鳥から文を受け取り開くと、懐かしい香の薫りが漂った。
文から届く薫りだけで、彼女の箏の音色やゆかしい佇まいを思い出させられる。
能書家の父を持つ右京らしく、彼女の筆跡は楚々としつつも麗しい。
が、都を離れたわたしに文を書くようになってから、右京の筆が震えるようになった。
右京の文には、はじめに『かくまでも聞こえじと思えど……(こんなことまでは申し上げまいと思ったのですが……)』とあった。
さまざまに心みだれて藻塩草 かきあつむべきここちだにせず
(いざ筆を取るとあれこれと心が乱れて、この思いを御文に書くことが出来そうにありません)
おなじ世となほ思ふこそ悲しけれ あるがあるにもあらぬこの世に
(生きている実感のないこの世にいながら、それでもあなた様が同じ世にいると思うと悲しいのです)
右京の歌を読むだけで、涙が溢れてくる。
――右京、それはわたしも同じだ。生きた心地もしない、虚無感だけしかないこの世にあって、それでも同じ世に生きているということが、どれだけ悲しいことか。
生別死別こもごもあれど、戦いを繰り返すうちに、平家一門がひとりひとりと少なくなっている。そのなかにわたしの兄弟がいるのも事実だ。
右京の文には、こうも書かれていた。
『このはらからたちのことなどいいて(あなた様の御兄弟方のことにも触れて)』
思ふことを思ひやるにも思ひくだく 思ひにそへていとど悲しき
(ひとり残されたあなた様がどんなに心細くお思いかと想像するたび、わたくし自身の悲しみが添うことになり、一層悲しくなってしまいます)
右京もわたしの兄弟が亡くなったことを、わたしと同じく悲しんでいる。たとえそれが似て非なるものでも。
わたしの口元には、何故か笑みが浮かんでいた。
「麻鳥、紙と筆を持て」
はじめに『この難しい世の流れにあって御文を頂けたことは、流石に嬉しいことでした』と書き添え、紙に筆を走らせていく。
『今はただ身の上もけふあすのことなれば、返す返す思ひとぢめぬるここちにてなむ。まめやかにこのたびばかりぞ申しもすべき』
(自分の運命も今日明日のことですから、くれぐれも物を考えないようにしているのです。ですが今度だけは真心を籠めてお便りいたしましょう)
思ひとぢめ思ひ切りてもたち帰り さすがに思ふことぞ多かる
(物を考えないようにし、いっさいを思い切ってしまっても、また物を考えてしまう。さすがに思うことがたくさんあったのだと思わざるをえません)
今はすべて何の情もあはれをも 見もせじ聞きもせじとこそ思へ
(今となっては、どんな人の同情や愛情に対しても、耳目をふさいで見もすまい聞きもすまいと思っているのです)
『さきだちぬる人々のこといひて、』
(先立って死んでいった人々のことをいって、)
あるほどがあるにもあらぬうちになほ かくうきことを見るぞ悲しき
(生きていないに等しいつらいこの世にあって、まだ耐え難い現実を見るのは悲しいことです)
紙面が乾き畳み終わると、わたしは文を麻鳥に持たせた。
――右京、この世は儚いものだ。永遠に続くと思われた栄華が、こんなにあっさりと終わってしまうとは。
罪人のごとく都を追われ、武士とはいえ慣れぬ戦いをし、人が斬られる姿や捕らわれる姿をつぶさに見てきた。
絶望した兄弟は自ら海に入水したが、わたしは生き恥を晒しつつ今も生き延びている。
あなたといた麗しい日々が、いつか戻ってくると信じていた。
だが、もう無理だろう。源氏は強く、平氏は劣勢。わたしも早晩死ぬ。
ただ、近付いてくる死の足音を聞く日々が辛い。死ぬなら早く死んでしまいたい。
願わくば、我が身に潔い死が訪れることを――。
見上げると、満開の百日紅が頭上で揺れていた。
「早くメルマガ発行しないと、廃刊しちゃうよ~~!」とまぐまぐさんからお達しが何回も来ているので、ちゃちゃっと書いてみました。
時系列的には、屋島の戦いの前で、主人公は平重盛の次男・平資盛。彼に手紙を出したのは建礼門院右京大夫だったりします。
この小説に登場する歌は、「建礼門院右京大夫集」に収録されているものです。
一の谷で源氏との戦いに敗れた我等平氏は、讃岐国屋島に逃れてきた。
兄・維盛と弟・清経が入水して果て、帝を頂き西国に都落ちしている平家に同行している小松一門は、わたしと有盛だけである。
屋島に帝の仮御所を築き、我等平氏は一時の休息を得た。
「資盛さま、いつものお方から御文です」
わたしの乳兄弟である麻鳥が、見るともなく百日紅を見ているわたしにうやうやしく料紙を差し出す。
――右京……。
右京。わたしの愛しい女人(ひと)。
彼女は建礼門院さまにお仕えしていた元女房で、門院さまが帝を生み参らせ給う頃に彼女の母上が病に臥したゆえ、看病のため御所を離れた。
わたしが妻を迎え、右京も愛人が出来たため、一時は間遠になったが、今でも最も馴れた女人、後世を託せる女人は右京だけといえる。
わたしが都から落ち延びてからも、何かの伝手がある限り、右京は文を届けてくれた。それもまた慕わしく、目から涙が落ちる。
今回も誰かの計らいで、右京は遠く離れて久しいわたしに文を書いてくれた。
麻鳥から文を受け取り開くと、懐かしい香の薫りが漂った。
文から届く薫りだけで、彼女の箏の音色やゆかしい佇まいを思い出させられる。
能書家の父を持つ右京らしく、彼女の筆跡は楚々としつつも麗しい。
が、都を離れたわたしに文を書くようになってから、右京の筆が震えるようになった。
右京の文には、はじめに『かくまでも聞こえじと思えど……(こんなことまでは申し上げまいと思ったのですが……)』とあった。
さまざまに心みだれて藻塩草 かきあつむべきここちだにせず
(いざ筆を取るとあれこれと心が乱れて、この思いを御文に書くことが出来そうにありません)
おなじ世となほ思ふこそ悲しけれ あるがあるにもあらぬこの世に
(生きている実感のないこの世にいながら、それでもあなた様が同じ世にいると思うと悲しいのです)
右京の歌を読むだけで、涙が溢れてくる。
――右京、それはわたしも同じだ。生きた心地もしない、虚無感だけしかないこの世にあって、それでも同じ世に生きているということが、どれだけ悲しいことか。
生別死別こもごもあれど、戦いを繰り返すうちに、平家一門がひとりひとりと少なくなっている。そのなかにわたしの兄弟がいるのも事実だ。
右京の文には、こうも書かれていた。
『このはらからたちのことなどいいて(あなた様の御兄弟方のことにも触れて)』
思ふことを思ひやるにも思ひくだく 思ひにそへていとど悲しき
(ひとり残されたあなた様がどんなに心細くお思いかと想像するたび、わたくし自身の悲しみが添うことになり、一層悲しくなってしまいます)
右京もわたしの兄弟が亡くなったことを、わたしと同じく悲しんでいる。たとえそれが似て非なるものでも。
わたしの口元には、何故か笑みが浮かんでいた。
「麻鳥、紙と筆を持て」
はじめに『この難しい世の流れにあって御文を頂けたことは、流石に嬉しいことでした』と書き添え、紙に筆を走らせていく。
『今はただ身の上もけふあすのことなれば、返す返す思ひとぢめぬるここちにてなむ。まめやかにこのたびばかりぞ申しもすべき』
(自分の運命も今日明日のことですから、くれぐれも物を考えないようにしているのです。ですが今度だけは真心を籠めてお便りいたしましょう)
思ひとぢめ思ひ切りてもたち帰り さすがに思ふことぞ多かる
(物を考えないようにし、いっさいを思い切ってしまっても、また物を考えてしまう。さすがに思うことがたくさんあったのだと思わざるをえません)
今はすべて何の情もあはれをも 見もせじ聞きもせじとこそ思へ
(今となっては、どんな人の同情や愛情に対しても、耳目をふさいで見もすまい聞きもすまいと思っているのです)
『さきだちぬる人々のこといひて、』
(先立って死んでいった人々のことをいって、)
あるほどがあるにもあらぬうちになほ かくうきことを見るぞ悲しき
(生きていないに等しいつらいこの世にあって、まだ耐え難い現実を見るのは悲しいことです)
紙面が乾き畳み終わると、わたしは文を麻鳥に持たせた。
――右京、この世は儚いものだ。永遠に続くと思われた栄華が、こんなにあっさりと終わってしまうとは。
罪人のごとく都を追われ、武士とはいえ慣れぬ戦いをし、人が斬られる姿や捕らわれる姿をつぶさに見てきた。
絶望した兄弟は自ら海に入水したが、わたしは生き恥を晒しつつ今も生き延びている。
あなたといた麗しい日々が、いつか戻ってくると信じていた。
だが、もう無理だろう。源氏は強く、平氏は劣勢。わたしも早晩死ぬ。
ただ、近付いてくる死の足音を聞く日々が辛い。死ぬなら早く死んでしまいたい。
願わくば、我が身に潔い死が訪れることを――。
見上げると、満開の百日紅が頭上で揺れていた。
――了――
「早くメルマガ発行しないと、廃刊しちゃうよ~~!」とまぐまぐさんからお達しが何回も来ているので、ちゃちゃっと書いてみました。
時系列的には、屋島の戦いの前で、主人公は平重盛の次男・平資盛。彼に手紙を出したのは建礼門院右京大夫だったりします。
この小説に登場する歌は、「建礼門院右京大夫集」に収録されているものです。
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