徒然草紙~神社とか小説とか~

神社仏閣巡り・小説・歴史考察・石談義など、ごった煮ブログです。ちょっとトンデル時もあります(笑)。

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アマテラスと瀬織津姫――抹殺された女神――






瀬織津姫は、饒速日以上に、朝廷に執拗に消された女神です。


現在、アマテラスと瀬織津姫を一緒に祭った神社はありません。


大社では、瀬織津姫は弥津波売神として「水神社」に祭られていたり、滝神として「滝神社」に祭られていたり、祓戸神として「祓戸社」に祭られています。主祭神として祭られている場合、小社です。


「エミシの国の女神」によると、持統天皇の晩年の三河行幸のとき、瀬織津姫を祭る神社の祭神を変更したらしいです。


例外というか何というか、兵庫県龍野の「井関三神社」に饒速日と瀬織津姫が同居してますね(^o^;。


瀬織津姫(天照大神荒御魂神)のまたの名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(日本書紀より)、または八十禍津日神(悪神)です。「中臣祓」ともいわれる「六月の晦の大祓祝詞」に「さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比メ(口+羊)」と現われてきます。


どうして悪神である八十禍津日神が祓戸神であるのか、「大祓詞後釈」ては「深き理ある事なりける」とあります。


女神アマテラスのなかに、原型神としての瀬織津姫が見え隠れします。


岩手県の瀬織津姫を祭る神社に、桜松神社があります。ここには、瀬織津姫に纏わる織姫伝説があります。


また遠野・早池峰山の社「伊豆神社」の瀬織津姫は、平安初期に入植した「おないさん」という拓殖婦人です。神社由緒には、遠野物語二話「大昔に女神あり……」の三女神の母になっています。


ここから、瀬織津姫の神格のひとつが織姫であることが垣間見えます。


女神アマテラスも織姫の部分があります。


また、女神アマテラスは養蚕の守護神でありすが、瀬織津姫もそうです。


遠野のオシラさまの話に、養蚕神としての瀬織津姫の姿、そして神馬=神明との関わりが見えます。


遠野六角牛山の神社に伝わる「シラア祭文」がもとになった、遠野物語の話です。


「昔ある貧しい百姓があった。百姓に妻はなく、美しい娘が一人おり、また一匹の馬を飼っていた。娘は馬を愛して起居を供にし、ついには夫婦になった。父はこれを知って激怒、馬の皮を剥いでしまう。馬を殺されたことに悲嘆した娘は桑の木に掛けられた馬の首に取りすがり泣く。父は怒り狂い馬の首を刎ねた。たちまち、馬は娘の身体を包み込み昇天。後悔する父の前に、白い糸を吐く蚕があらわれた。以来、ふたりの像を桑の木で作り、オシラさまというようになった」


瀬織津姫は天白神として祭られている神で、「オシラ祭文」の文字は天・白・虫の三字で構成されています。


娘をめとった神馬=神明(アマテラス)で、男性太陽神が隠れているような気がします。


あと、女神アマテラスは婦人病の女神ですが、この部分は瀬織津姫というより、住吉神の妃である淡島明神と関係ありそうですね。淡島明神も、探れば瀬織津姫(=カムフラージュ名・神功皇后)に行き当たります。


以下はプレアマテラスとしての男性太陽神絡みの話です。


これは筑紫申真著「アマテラスの誕生」に載っている、鎌倉時代の「通海参詣記」からの抜粋です。


「皇大神宮の神事に斎宮が参宮したところ、にわかに雷雨があり、斎宮が大声で叫んで神官を呼び寄せ天照大神の託宣を伝えます。このとき、乗り移った神は「我は皇大神宮一の別宮・荒祭宮なり。大神の勅を承けたまわりて託宣するところなり」と言っています。


他にも「通海参詣記」には「とびあがるほどびっくりした話」として、天照大神は男の蛇で、斎宮はその妃である。毎夜天照大神は斎宮のもとに忍ばれ、朝斎宮の衾をめくると、蛇のうろこが落ちている、とあります。


夜な夜な娘に通う蛇といえば、大和三輪・大神神社の大物主神ですが、謡曲「三輪」に、「思えば伊勢と三輪の神、一身分体の御事にや、今更なんと磐座や」とあります。三輪山は大和の旧い太陽の祀りがあったところです。


近江雅和著「記紀解体」によると、荒祭宮が現在の天照大神が入ってくる前の地主神で、磯部・度会氏(海部氏傍系)が祀っていました。が、中臣氏・荒木田氏が伊勢の祭祀を奪い取り、度会氏が外宮を祀ったといいます。


最後に、奈良時代の宗教改革のお話。


女神アマテラスのモデルが持統天皇というのは、よくいわれていますよね。


彼女は孫・軽皇子に譲位する寸前、父・天智天皇が定めた「不改常典(父から子など、天皇直系の間だけしか皇位を譲らない、という典)」を持ち出し、皇族を集めた会議で天武の皇子(長皇子・弓削皇子)を押さえつけます。天智天皇が「不改常典」を作ったのは、身分の低い女性に生ませた息子・大友皇子(弘文天皇)に位を譲りたかったからですが、持統は会議で大友の子に「不改常典」の正当性を証言させ、皇子達を黙らせます。「壬申の乱」で持統は夫・天武とともに弟・大友を殺しているのに、大友の子(葛野王――母・天武娘十市皇女)を持ち出しています。「不改常典」に縋り、葛野王(「不改常典」に法れば、天智天皇の正当な後継者)を持ち出すことは、天武が「皇位を正当な後継者から簒奪した」と臣下達に取られかねない危険な行動です。そこから、持統の切羽詰まった心情を読めます。


そういう事情から、孫・文武天皇への譲位の正当性を高めるために、「天照大神の孫への譲位」という図式を作りたかったのかも、とは推測できます(ただ、「不改常典」だけでは足りなかったのか? という疑問もありますが。汗)。


でも、以上のことだけでは解らない謎が、まだありそうです。


天照大神が女神になった経緯は、かなり複雑で推測するのが難しいです(汗)。




スポンサーサイト

*Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

*Trackback

トラックバックURL
http://ashera.blog105.fc2.com/tb.php/30-1de9167c

右サイドメニュー

BlogPet

ブログ内検索

ぶろぐにゃんこ

マウスでクリックしたり、ドラッグして顎の下を撫でて上げて下さい。ごろごろ鳴きますvv。

クリック募金

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。