徒然草紙~神社とか小説とか~

神社仏閣巡り・小説・歴史考察・石談義など、ごった煮ブログです。ちょっとトンデル時もあります(笑)。

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橘大学動態講演会「十二単のルーツ ――結髪と衣紋の実演――」






今日は橘大学の講演会を見に行きました。


演目は「十二単のルーツ ――結髪と衣紋の実演――」というものです。


平安時代末の清少納言から、平安初期の小野小町、百済王明信と時代が上がるにつれ、日本オリジナルといわれた「国風文化」が、どれだけ唐や朝鮮半島の影響を受けたか解る、という仕組みのものでした。






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清少納言


歌人清原深養父の曾孫。元輔の娘。生年は康保元年~同三年(964-966)頃とする説が多い。


天元五年(982)、橘則光との間に則長を産む。則光と正式な夫婦であったかは不明であるが、関係は長徳四年(998)頃まで続いたと考えられている。正暦初年(990-993)頃、一条天皇の中宮定子(藤原道隆の息女)のもとに宮仕えを始める。時に二十代後半、または三十歳前後か。


中宮定子の恩寵を蒙り、生来の機知と豊かな教養は評判となって、やがて『枕草子』を執筆。その一部は長徳元年(995)または翌年頃に清少納言の手を離れ、漸次宮中で広く愛読されるに至ったらしい。この間、藤原実方・行成・公任などとも親交を持った。


関白道隆は長徳元年(995)に死去し、代って道長が台頭。長保二年(1000)、定子は皇后に棚上げされ、中宮の地位には道長の息女彰子がついた。同年、定子は皇女出産の直後崩じ、この頃清少納言も宮仕えを退いたと思われる。


以後の生涯は不明な点が多いが、『枕草子』の執筆は定子の死後にも継続されたらしい。また藤原棟世と結婚し、重通と女子(小馬命婦)をもうけた(尊卑分脈)。『赤染衛門集』には、父元輔の荒れた旧居に住む清少納言に触れた歌があり、晩年の暮らしぶりが窺われる。没年も不明であるが、寛仁四年(1020)頃とする説や、万寿四年(1027)頃とする説などがある。


中古三十六歌仙の一人。家集『清少納言集』がある。後拾遺集初出。勅撰入集14首(金葉集三奏本の1首を除く)。


やまとうたより)






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小野小町


出自不詳。『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあり、『小野氏系図』には篁の孫で、出羽郡司良真の娘とある。ほかに出羽守小野滝雄の子とする説などもある。


京都山科・随心院では小町の名を比古姫とし、彼女が五色の舞姫であったと伝えている。


経歴等も明らかでないが、仁明朝(833-850)・文徳朝(850-858)頃、後宮に仕えていたことは確からしい。「小町」の名から、姉と共に仁明天皇の更衣(または中臈女房)であったと見る説があり、また『続日本後紀』承和九年(842)正月の記事に見える小野吉子(仁明天皇の更衣とみられる)と同一人とする説などがある。


古今・後撰の歌からは安部清行・小野貞樹・僧正遍昭・文室康秀との交渉が窺え、また「小町が姉」の歌が見える。


百余首の歌を収める家集『小野小町集』が伝わるが、後世の他撰であり、他人の作が混入している。確実に小町の歌と言えるのは古今集所載歌18首のみとも言い、あるいはこれに後撰集の4首を加える論者もいる。古今・後撰以外の勅撰集入集歌はすべて「小町集」から採録したものと考えられ、小町の実作であるか疑わしいものが多い。小町の名での勅撰入集は総計67首。


六歌仙・三十六歌仙。古今集仮名序には「いにしへの衣通姫の流なり、あはれなるやうにて強からず、いはばよき女のなやめるところあるに似たり」と評されている。


やまとうたより)









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百済王明信


百済最後の王・義慈王の血を引く渡来氏族の女性。藤原南家・継綱の妻。


宝亀元年(770年)、夫の昇進に伴い正五位下を賜り、同年従四位下となる(この頃から、王時代の桓武の寵愛を受けていた?)。


延暦二年(783年)、桓武天皇が大阪交野から枚方への行幸中に、天皇が交野の百済王家に立ち寄り、明信は正五位下となる。


間もなく、夫とは無関係に正四位上に叙せられる。


延暦六年、帝が山城国高椅(京都市南区吉祥院)行幸の帰途に継綱の家に立ち寄った折、明信は従三位となる。


延暦十五年、夫亡き後、桓武帝の後宮に尚侍として入り、目覚しい寵愛を受ける。


彼女が尚侍の位に就いていたこともあり、桓武の後宮には百済王家の女性が九人も入内している。


母が渡来氏族の出であった桓武は立場の近さからか百済王家に親しみを感じており、「百済王家は我が外戚である」と発言していた。


桓武の明信への寵愛は厚く、曲水の宴の折、作歌に苦しむ明信に代わって帝が歌の代作をしたこともある。


晩年では、散事(位だけで職務がないこと)従二位となっていた。


(「十二単のルーツ」レジュメより)








今回の講演会は、丁度わたしが書いている小説の時代と重なっており、その参考も兼ねて見に行きました。


ただ一言疑問を呈すると、百済王明信と小野小町の時代は然程離れておらず、未だ唐風文化真っ盛り、嵯峨天皇や空海、小野篁などが漢詩をガンガン詠んでいた時代です。


菅原道真が遣唐使の廃止を進言し、唐と日本の交流は幕を下ろしましたが、その頃から日本のオリジナリティーが発揮される「国風文化」が始まるのではないかなぁ、と思いました。


だから、小野小町の服装は宇多天皇の女房の伊勢や、醍醐天皇の母・胤子がしていたのではないかなぁ、と。


清少納言の衣装は待賢門院璋子や建礼門院徳子がしていたのだと推察しています。





わたしが現在書いている小説のヒロイン・真井御前が妃だった頃の装束は、風俗博物館平安初期女官朝服(どちらかというと明信の衣装に近い)を基にして書いています。








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しかしまぁ、滅多に見られないものを見せてもらったので、よかったです。


ただ、明信の結髪のときに同時に小町の衣紋をされていたので、真井御前と同時代である小町の着付けばかりを見ており、明信の唐風の髪型がどうやって結われていくのか見ることが出来ず……(汗)。


以前に随心院で行われた違う服飾の講座を見に行ったとき、十二単は女房など官女や身分の低い女性が身に着けており、妃や高官の夫人などはスカスカスケスケな衣装を身に着けていたと聞きました。


まぁ、天皇の前に出るときは十二単か細長を身に着けるでしょうけれどね(笑)。




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